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トロント猛虎会阪神優勝祝賀会に宮崎相談役の参加か?!

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以下は宮崎相談役から丸木理事へのメール:

From: 宮崎 恒彰 [mailto:miyazaki.t@hcl-c.com]Sent: Monday, August 04, 2008 1:01 AMTo: Hideo Maruki

Subject: 5周年

ご盛会のご様子何よりです。岡田監督の祝電はともかく、小生はオーナーを辞めた身分で、付け足しで申し訳ありません。  

ジーン・ディノヴィさんは残念でしたね。次回は参加されるでしょうか。しかし、すぐ代わりの方が演奏されるなどは、流石トロント猛虎会ですね。お見えになったとき、DVDを拝見するのを楽しみにしております。  

トロントとご縁があるのでしょうか、まだ、はっきりしませんが、9月下旬頃、ニューヨークのニールセンへ、ライセンスをもらっているビルボード音楽事業の挨拶に行こうかと思っております。先方の社長のアポが取れないと、日程が分かりませんが、ニューヨークからトロントは飛行機でどれくらいの時間が掛かるのですが?もし、丸木さんたちのご予定が合い、紅葉でも見ることが出来たら最高なんですが。(少し時期が早いかな?)ロスの当社支店へ立ち寄ってから、ニューヨークへ行く予定ですが、相手側の都合次第です。

宮崎 恒彰

-----Original Message-----From: Hideo Maruki [mailto:maruki_hideo@rogers.com]Sent: Monday, August 04, 2008 12:09 AMTo: miyazaki.t@hcl-c.comCc: maxas@sympatico.ca; wada@sawayaka.com.br; nikka@idirect.com

Subject: 5周年

丸木で~す トロント猛虎会5周年パーティーから今帰ってきました。宮崎相談役と岡田監督からの祝電に、参加者一同感激しました。主用選手の色紙他たくさんのタイガース・グッズ本当に有難う御座いました。他にも各位から寄贈の阪神グッズもあり空籤なしのドアプライズに沸きました。頂戴した大きな2008年旗幕をバックに記念写真も撮りましたのでDVDを持参します。四方山話の話題が又ひとつ増えました。ひとつだけ残念だったのは、いつも「六甲おろし」の伴奏をしてくださるジーン・ディノヴィさんが負傷され参加できなかったことです。代役にヤマハピアノ調律師の方が伴奏してくださり、甲子園に届けと皆で「六甲おろし」を斉唱し「リーグ優勝祝賀会で会いましょう」と言い合って散会しました。

甲子園観戦記

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 トロント猛虎会のマックス松本会長の名代として、阪神タイガースの宮崎オーナー、岡田監督と、日本に帰国されてる肥塚大使に、松本会長からの親書を携え訪日してきました。肥塚さんは云わずと知れた我がトロント猛虎会発起人で、トロント総領事をされていた方です。
 8月12日関空着、月末の阪神巨人三連戦まで間があったので、宮崎さんから大阪の阪神電鉄本社で四方山話をしようと提案あり、お盆明けに出勤された同氏とホテル阪神のレストラン特別室で阪神ランチ(テキにカツ)を食べながら2時間ほど話し合いました。
 トロント新移住者協会ニュースレターに「バーチャル交遊抄」と題し寄稿したメル友がリアル交友となりました。2年間のメールのやりとりで、おおよその見当はついてましたが、阪神タイガースのオーナーは実に気さくな方で直ぐに打ち解け、出身地も近いことから共通に知人もあって、文字通りの四方山話になりました。
 折から北京オリンピックの最中で、野球は苦戦するのではないかと申されたのには度肝を抜かれましたが、そのとおりになり慧眼には敬服しました。長期のリーグ戦はともかく、一発勝負では難しいなとも申され、先見の明には感心しました。従って、リーグ優勝してもクライマックスシリーズで勝てるとは限らないと、憂慮しておられました。
 オーナー会議の後で他球団のオーナーと飲みに行った時に、メジャーのオーナーがカリブ海の大型ヨット(ダイニングルームや医務室まである)から球場でプレーしてる監督に電話で指示してるのをテレビで観て「同じオーナーでもえらい違いや、向うはほんまもんのオーナーやけど、日本では皆サラリーマン・オーナーやからなぁ」と、お互い慰め合ったとか・・・。
 
 いよいよ待ちに待った伝統の阪神巨人戦当日の午後、肥塚さんが東京発の新幹線の中から僕の関空でレンタルした携帯に電話してこられ、大雨で河川の洪水があるらしく不通になってる区間があり集合時間に遅れると連絡あり、宮崎オーナーに指示を仰ぎました。間に合わない場合は6号門に直接来られれば来賓席まで案内するようにしておくと、新幹線の中に居られる肥塚大使に直接電話されました。
 肥塚さんは集合場所の阪神タイガース球団事務所のあるクラブハウスに5時丁度に来られ事無きを得ました。6号門から入場した僕達は、球場内の応接室でトロント猛虎会5周年記念パーティーのDVDを観賞し、発起人の肥塚さんは殊のほか感動され目が潤んでました。自称世界一のトラキチ・BC大学ピアノ科教授のサラ・ビュークナー女史は、トロントの活動に刺激されバンクーバー猛虎会も活発にやらなければとハッスル。
 阪神巨人両チームの試合前の練習が終わり、プレーボール直前に岡田監督のオフィスで宮崎さんに紹介された後、マックスから岡田監督宛のパッケージを手渡し、僕の着てたトロント猛虎会Tシャツの背中に岡田監督が大きなサインをしてくれました。マックス宛の色紙を書かれたのと同じ文字で、サラが欲しがりましたが、トロントのユニフォームだからと断りました。彼女は岡田監督をハグしてキッスすると云ってましたが、宮崎オーナーによれば、同監督が神経のピリピリ緊張してる試合直前に訪問者との面談に応じたのは前例がないそうで、トロント猛虎会5周年にも祝電を打ってくれたように、トロント猛虎会だけは特別扱いとか・・・。
 岡田監督との面談が終わり、記者会見に臨み宮崎オーナーから僕達の訪日目的と紹介がありました。発起人で終身名誉会長の肥塚大使、幹事の僕、去年の暮にも甲子園で記者会見したトラキチのビュークナー教授。大勢の記者から連発の質問攻めにカメラマンの焚くフラッシュが眩しく、不慣れの僕はまごつきましたが、大使も教授も場慣れしてるのか当り障りなく応答されました。

 プレーボールの声を聴きながら来賓席に着席。サラは早速、タンクを担いだアルバイト女子大生から生ビールを買い求めグイ~と飲み干し、タイガースグッズを取り出し気勢をあげ猛烈な応援。雨がひどくなってきたので、来賓用プレミアム・ダイニングルームに移動し山海の珍味に舌鼓。刺身や神戸ビーフも美味でしたが、甲子園名物のライスカレーとビール会社直通の生ビールのうまいことうまいこと。雨が小止みになり席に戻り観戦、関本のタイムリーヒットで先ずは三連戦の緒戦に勝利。六甲おろしの歌詞がスコアボードに電光文字で現れ、勝利の美酒に酔いながら歌うタイガース応援歌。僕達一行は感動に包まれ球場を後にしました。

 球場の傍にある竹本アンパイヤーの経営する居酒屋での反省会は英語での会話。神戸大学出身の宮崎さんも流暢な英語で話が弾みました。そう云えば昔から一橋大学と神戸大学を出た人は何故か英語が上手でした。反省会の後、僕はタイガース私設応援団常任理事の高橋二郎さんの招きで今津にある飲み屋「虎」に行きました。今津中学の後輩のたむろする今津に来たのは55年ぶりで感無量。阪神ファンの集う店に貼ってあるメニューの「兄貴・金本」は焼肉、「巨人の叩き」は鰹のたたき等々、おもろい名前の料理の列。割り箸の紙サックには大きな文字で巨人ファンお断わりと印刷されており、翌朝、ブレックファーストを共にした肥塚さんも、おもろいからと一膳持って帰られました。

 阪神タイガースの宮崎オーナーはじめ総務部長の福島さんと広報部長の酒井さんが、つきっきりでのおもてなしには頭が下がりました。今まで会ったことも話したこともなかったインターネットによるバーチャル交遊抄が一夜にしてリアルの交友に転じた経緯を書いてみました。宮崎オーナーと三宅スカウトが10月7日にトロントに来られ、トロント猛虎会の阪神優勝祝賀会に臨席されます。
トロントに住む僕達トラキチの夢が実現するのもジャスト・アラウンド・ザ・コーナー。
六甲おろしに颯爽と♪

阪神タイガース歓迎会

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 2008年10月8日、待ちに待った日が実現しました。阪神タイガースの宮崎オーナーと三宅スカウトがトロントに来られ、トロント猛虎会に出席してくれたのです。思いもかけぬ来賓の臨席に会員一同大歓迎したのは言うまでもありません。
 僕達はリーグ優勝祝賀会を計画していたのですが、連敗に告ぐ連敗で巨人に追い上げられ、遺憾ながら当日の優勝見込みがなくなり、会場のバナーを阪神タイガース歓迎会と書き換えました。その上、皮肉にもお二人が日本に帰られた翌日に巨人優勝が決まり阪神ファンには悪夢のようなシーズンでした。それでも球団首脳がトロントまで来てくれたのだから、猛虎会にとっては画期的な行事でありました。なにしろ、猛虎会は日本も含め世界に多数ありますが、オーナーじきじきに参加されたのはトロントが初めてだそうです。
 球団の親会社である阪神コンテンツリンク会長の宮崎さんは、同社ロサンゼルス事務所での仕事を終え、ニューヨークにある提携先のビルボード本社を訪問されました。阪神は東京、大阪、福岡にビルボードのライブハウスを開店されており、ジャスファンには馴染のスポットになってるそうです。
ちなみに、ビルボードの前には有名なブルーノートのフランチャイズを東京と大阪に営業されていたそうです。
 ピアソン空港に出迎え到着ロビーで待っていると、成田空港でレンタルされた携帯から僕の携帯に飛行機を降りて入国手続の列に並んでますと電話があり通関まで半時間ぐらいとわかりほっとしました。宮崎さんは40年前の阪神電鉄入社当時、日本でボーリングブームが起こり、電鉄会社の関連事業開発にバッファローに来たことがあるとか。その際にナイヤガラの滝を見た記憶があるが、あらためて観たいとのことで、ホテルのチェックインには早過ぎるので空港からナイヤガラに直行しました。
 三宅スカウトはマサチューセッツ州のクラークカレッジ出身で英語とスペイン語を話されとか、さてはキューバ、プエルトリコ、ドミニカ、メキシコ、ベネズエラの金の卵のスカウト要員と読めた。
営業時間を少し過ぎていましたが、店を開けて待ってくれていたレストラン「滝」支配人のトモさんは熱狂的な阪神ファンで、話が尽きないばかりか料金までチャラにしてくれました。宮崎オーナーは、お礼に支配人の3人のお子さんに子供用の阪神グッズを贈呈され、トモさんは大喜び。宮崎さんはうどんランチ、三宅さんと僕は滝ランチ、それにしても、あそこのランチは安くておいしいですね。
 夕方にロジャースセンター野球場内のルネッサンスホテルにチェックインされた後、トロント猛虎会マックス会長宅でリラックスしビールで乾杯。ブルージェイズの長谷川さんも合流し、ヨークビルにあるイタリア料理のBelluni'sで前夜祭的の歓談。マックスから猛虎会発足当時のエピソードを披露、発起人で当時のトロント総領事・肥塚大使と宮崎オーナーは一ヶ月前に甲子園球場で会って面識あり同じ話を両国で二度聞かされ、根強い阪神ファンが世界の隅々まで存在することに感動されました。
 帰国中の大使を野球観戦に誘うのは無理だろうとマックスが申しましたが、折角の機会だから駄目元で僕が肥塚さんにメールしました。頭初は「公務員にウイークデーの観戦は難しいな」と云われたものの、「休暇が取れたから行くよ」と、大使が中学高校の頃に住んでおられた甲子園まで来られました。大使は、外務省入省以来は外国勤務ばかりで甲子園での野球観戦は1972年以来。
 旅程も最終行程に入りリラックスされたのか、宮崎さんが「高校時代にトロントのペンパルから受け取った手紙に、チューインガムが同封されていました」と話されました。三宅さんが「そのガールフレンドの名前を覚えておれば・・・」とひやかし和気藹々。その回顧談に僕の想い出が甦り、高三の時に岡惚れしていた学校随一の美人同級生の話をしました。
日本に帰られた宮崎さんから「その方は映画(濡れた唇)や(愛欲の罠)等の主演女優で日本一のポルノ女王、コテコテの阪神ファン」とのメールが翌週届き、僕は絶句!

2010年第一回トロント猛虎会開催のお知らせ

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オープン戦も終盤を迎え、26日からの開幕戦(対横浜三連戦)に
我々トロント猛虎会の阪神フアン仲間達にも緊張感が迸って来るの
を止める事が出来なくなって来ました。先発投手は?、打順は?、四番には誰が?・・・ 従っ
て、ネット上の「球団公式メルマガ<http://hanshintigers.jp/news/
offnews/>」を始め各新聞社のスポーツ欄やフアンによるブログ等阪
神タイガースに関する記事を追う時間が増えて来ました。

今年のオープン戦、現在のところ金本選手が13打席ノーヒットな
のでちょっと心配だけど、新井選手の調子が出て来たので安心。開
幕戦は安藤投手に期待するとして、打順はマートン選手を一番に据
え、関本選手、鳥谷選手、金本選手、城島選手、新井選手・・・
否、新井選手か城島選手を4番に据えるのも悪くないし、平野選手
や葛城選手、桧山選手,ブラゼル選手と優秀な選手がしのぎを削っ
てポジションを争ってくれればと、リーグ覇者への期待感が膨らん
で来ます。今年もトロント猛虎会の仲間達と一喜一憂を分かち合い
ながら阪神タイガースのリーグ優勝へ向って熱烈応援しようではあ
りませんか。

4月24日(土曜日)に本年度第一回トロント猛虎会を開催します
ので仲間達を誘ってご参加下さい。会場は例年通りジェイムス松本
邸、5時半~6時 p.m. に参集願います。出席される人数又
は出席の可否についてはマックス松本までご連絡下さい。

Makoto (Max) Matsumoto 

トロントの野球チーム「Tigers」

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トロントに "TIGERS" "GIANTS" "WHALES" といった野球チー
ムがあるのをご存知でしょうか。古くから2~3世による軟式野球リー
グ Japanese Canadian Baseball League (JCBL) があり、過去に
“DRAGONS" "KINTETSU" と云う名のチームもあったそうで
す。そして昨年、新チーム TIGERS が誕生したと聞いたので
チームの代表である小島さんと孫さんから話しを聞きました(この
ご両人、日本のプロ野球では阪神タイガースのフアンだった由)。
リーグは5月から9月まで毎日曜日、6球団総当たり(15
Games) の後プレーオフ (Double Elimination) 方式。チーム
のメンバーは日系、韓国系移民、駐在員、学生、ワーホリなどで構
成され、昨年の成績順位は GIANTS - WARRIORS-ASAHI-TIGERS-WHALES-
TANINO だった様子です。GIANTS が一位で TIGERS が
四位とは昨年セ・リーグでの順位と同じなのは不思議な縁。今年は是
非、JCBL の TIGERS にも優勝して貰いたいと思います。

Makoto (Max) Matsumoto

日刊工業新聞記事「いざ出陣! 阪神タイガース」

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3月26日付け日刊工業新聞 P-26「いざ出陣! 阪神タイガース」の記事に、関西学院経済学部の高林喜久男教授のコラム「戦績が経済と連動」が掲載されました。冒頭に「私は毎年、阪神優勝を予想している・・・」と、私達阪神フアンの気持ちを代弁してくれているかのようです。

記事の写真をここに添付します。写真右下の+マークをクリックすると拡大記事がご覧いただけます。

サンパウロ新聞にトロント猛虎会丸木氏

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サンパウロ新聞にトロント猛虎会の丸木英朗氏のインタビュー記事が掲載されました。

Web版は以下の通り。

「トロント猛虎会」の丸木さん サンパウロ新聞WEB版より
タイガース優勝を祈願「トロント猛虎会」の丸木さん 
サンパウロ新聞WEB版より http://www.spshimbun.com.br/imagens/maruki.jpg 

カナダ・トロントにある阪神ターガース・ファンクラブ「トロント猛虎会」理事の丸木英朗さん(75、兵庫県出身)が、1月下旬から来伯し、約2週間にわたって滞在した。 丸木さんによると同猛虎会は、2003年に阪神タイガースがリーグ優勝をおさめた際、当時の在カナダ日本国総領事が発起人となって結成。現在、2歳から90歳まで100人以上のメンバーがいるという。丸木さんは、1966年12月に移民として渡伯し、約6年間サンパウロで活動後、72年にカナダに再移住した経験を持つ。 ペルナンブコ州レシフェ出身の非日系の夫人と結婚し、以前はカナダから毎年のようにブラジルを訪問していたが、ここ5年ほどは夫人が大病を患ったため、来られなかったという。 丸木さんは今回サンパウロで、ブラジル猛虎会の尾西貞夫会長らと懇談し、6日には昨年10周年を迎えた「なつメロ合唱の集い」(五十嵐司世話人)に出席し、交流を深めた。 丸木さんはトロントで、同猛虎会以外に今年で創立10周年を迎える「トロント歌声喫茶」の会にも関わっており、この度の訪伯で、なつメロ合唱のメンバーと一緒に歌うことを楽しみにしていたという。 丸木さんは、今年の干支(えと)が「寅」であることから、「今年のタイガースは絶対優勝やね」と豪快に笑いながら語ってくれた。写真:来伯していた丸木さん

2010年 2月25日付


写真3枚目は丸木氏撮影による、春節祭でブラジル猛虎会会長の店の前の広場に鎮座していた巨大な虎。

随筆 「輝く我がなぞ 阪神タイガース 」

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2010年4月号トロント商工会誌「Trillium リレー随筆」より転載します。トロント日本商工会の会員でトヨタクレジットカナダの森川由章による阪神タイガースへの熱い思いが記されています。(リンクはこちら→ http://www.torontoshokokai.org/trillium/201004/zuihitsu_0410.html



リレー随筆

「輝く我が名ぞ 阪神タイガース」

トヨタクレジットカナダ 森川 由章



阪神タイガース。

言わずと知れた、日本一有名で、日本一の集客力を誇り、日本一熱狂的なファンを抱え、日本一の球場を本拠地とし、にもかかわらず過去に一度しか日本一になっていない(2リーグ制導入後)、愛すべきプロ野球球団である。関西出身者の6割が阪神ファンとも言われるほど、その弱さに反し関西地方では絶対的な人気を誇るこの阪神タイガースという不思議なチームについて、紹介させていただきたいと思う。

歴史

その歴史は古く、1935年に設立され、翌年の日本プロ野球リーグ開始以降、現在に至るまで全てのシーズンに参加している。“タイガース”の名は、設立時に阪神電鉄社員の公募によって決定されたものである。設立から1960年までは大阪タイガースという球団名であった。

創設から戦後にかけては4度の日本一に輝くなど、人気・実力を伴う強豪チームであったが、1950年の2リーグ分裂後は巨人の後塵を拝し続ける。低迷を抜け出したのは1962年。この年、藤本監督の下、2リーグ分裂後初のリーグ優勝を飾り、翌々1964年にも優勝。日本一は逃したものの、常勝タイガース復活を印象づける。

しかしそれ以降20年に渡り優勝を逃し続け(20年のうち3位以内には12回入っているので、そこまで弱かったわけではない。巨人9連覇の時代である)、次のリーグ優勝は1985年。この年は吉田監督の下、ダイナマイト打線を擁しリーグ優勝を果たすと、日本シリーズでも西武を破って悲願の日本一を達成する。この年のハイライト、伝説のバックスクリーン三連発は誰もがご存知であろう。

その後、阪神タイガースは低迷期、いや、暗黒時代に突入する。1987年から2001年までの15年間で優勝はおろか3位以内はわずかに1度、最下位になること実に10度と、驚異的なペースで負け続ける。この時代を経験したが故に阪神は弱小球団として世間から強く認知されたのであろう。

近年は、2003年に星野監督・2005年に岡田監督の下で優勝を果たし、それ以外の年でも優勝争いを繰り広げるなど、暗黒時代からは脱却した。

甲子園

阪神タイガースの本拠地は、兵庫県西宮市甲子園町にある阪神甲子園球場である。収容人数は日本の野球場で最大であり、外壁の蔦や銀傘、美しい天然芝、気まぐれな浜風が特徴の、日本一と言っても過言ではない野球場である。高校野球の聖地でもあり、全国の高校球児の目標である夏の選手権大会および春の選抜大会が開催される期間中は、プロ野球の試合は行われない。試合に負けた高校球児が甲子園の土を持ち帰るシーンは春と夏の風物詩と言えよう。また、甲子園ボウル(アメフト大学王者決定戦)の開催地でもある。

甲子園における阪神ファンの応援は世界一とも言われるが、その一体感や大音量は鳥肌が立つほどであり、地鳴りのような歓声は甲子園を揺らし、対戦相手に極度のプレッシャーを与える(但し、時として阪神側へのプレッシャーとなることも)。

ファン

「トラキチ(1985年の流行語大賞銀賞)」という言葉が存在するように、阪神タイガースは、他球団と比べて熱狂的なファンを抱えることでもよく知られている。

既述したように、その応援は世界一と称され、その動員力は12球団ナンバーワンである。甲子園では見渡す限り阪神ファンという光景は当たり前であるし、アウェイでの試合でも阪神ファンが数で圧倒することが多々ある。近年では関西地方のみならず全国的に熱狂的なファンが拡大しており、地域・世代を問わず阪神タイガースに対して強い一体感・愛情を持っている。応援が生活の一部となっているファンも少なくない。

しかしタイガースへの強すぎる愛情が仇となり、過去に問題行動(優勝時の道頓堀への飛び込み、敗戦時の相手球団ファンへの暴行、相手球団選手への誹謗中傷、カーネルサンダースの呪い、等)を度々起こしており、良識あるファンや選手から非難の声があがることもある。

応援スタイルは非常にバリエーション豊かであり、レギュラー選手全員のヒッティングマーチはもちろん、得点シーンやチャンスでの応援、ラッキーセブンのジェット風船や勝利の六甲おろし等、さまざまな趣向が凝らされている。服装も、ユニホームや法被をはじめ、バラエティーに富んだ色とりどりのものが見られる。

阪神ファンにとって『六甲おろし』は、カナダ人にとっての『オーカナダ』に匹敵するほど大切な歌と言っても過言ではない。他の球団歌とは一線を画す、ファンの心を一つにしてくれる伝統の歌である。ちなみに、『六甲おろし』とは単なる通称であり、正式名称は『阪神タイガースの歌』という。

私と阪神タイガース

私が阪神ファンとなったのは必然であった。阪神ファン(イコール、アンチ巨人)であった父は、野球少年の息子がプロ野球中継を見たいと言っているのに、阪神が巨人に負けているときは決して見せてはくれなかったし、私が父に連れられて初めて生でプロ野球を見たのは、真弓の決勝ホームランでタイガースが勝った試合であった。甲子園のある兵庫県で生まれ育った私にとって、阪神タイガースは身近にして最大のヒーローであった。

だが、悲しいかな1980年生まれの私は1985年の日本一をはっきりと覚えていない。私の脳裏に焼きついているのは、上述した暗黒時代の阪神タイガースである。毎年のように最下位争いをし、見るに耐えない惨敗を繰り返し、試合の結果よりも新庄のファッションが話題になる、あの阪神である。それでも何故か私は阪神ファンであることを常に誇りに思い、他チームのファンになりたいと思ったことは一度たりともなかった。

プロ野球である以上、勝つために試合をし、ファンも勝利を望む。そしてことごとく裏切られるにも拘らずファンは去っていかない。弱いが故に1勝の喜びが他球団の何倍にも感じられるのか、阪神に傾注した関西のスポーツ新聞による洗脳なのか、理由は定かでないが、私は他の阪神ファン同様、暗黒時代もタイガースを応援し続けた。

近年の躍進はもちろん喜ばしいことで、18年ぶりの優勝を果たした2003年、黄金時代到来の予感を感じさせてくれた2005年、私は歓喜の涙を堪えることができなかった。また、優勝争いの緊張感を毎年味わえるのはファン冥利に尽きる。しかし私は、再び暗黒時代に戻ってしまうことを恐れながらも心のどこかで、負け犬根性が染み付いた昔のタイガースを懐かしんでいるのである。

余談になるが、私がトロントに赴任して感じたのは、トロントメープルリーフスと阪神タイガースが非常に似通っているということである。弱いが伝統のある名門チームだが昔は強豪であった点、リーグの中で最も熱狂的なファンを有する点、そして負けても負けてもファンが応援してくれるという点において、メープルリーフスはNHLの阪神タイガースと言えるのではないだろうか。

阪神のススメ

ここまで読んでいただいた方は、阪神がどのようなチームかおおむねご理解いただけたかと思う。しかし阪神タイガースの本当の魅力は、やはり現地で応援してこそ理解できるものである。甲子園は別格であるが、他の球場であっても阪神ファンの応援は対戦相手を圧倒する。あの一体感・高揚感のあるお祭り騒ぎを体感し、声を枯らして帰途に着く頃にはあなたも一端の阪神ファンとなっているに違いない。

一度はまるとなかなか抜け出すことのできない、麻薬のような危険を伴う阪神タイガースという世界に足を踏み入れてみてはいかがであろうか。きっとあなたの人生に新たな刺激を与えてくれるはずである。




 

デイリースポーツにトロント猛虎会の丸木氏

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4月27日のデイリースポーツ7面で、我がトロント猛虎会の丸木英朗氏が紹介されました。
(オリジナル画像は右下の+印をクリックしてください。)

大の阪神タイガースファン、サラ・ビュックナーさん

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写真1:ピアニスト、サラ・ビュックナー氏
写真2:大の阪神タイガース・ファン
写真3:JRパスや入場券など日本旅行の思い出を張ったパネル(左はピアニストの勢川加代子さん)

以下4月7日のバンクーバー新報より:


日本語堪能なピアニスト・UBC准教授 阪神タイガースの名誉ファン サラ・デイヴィス・ビュクナー氏
Friday, 15 April 2011 10:17
会った瞬間から、相手を引き寄せるようなオーラがあふれ出すピアニストのサラ・デイヴィス・ビュクナー氏。流暢な日本語にジェスチャー交じりの愉快な会話。阪神タイガースの話を始めたら止まらない。 
4月10日に行われるチャリティー・コンサート開催に向けて貢献したビュクナー氏に話を聞いた。



初めての日本でふぐ料理
大阪芸人を思わせるようなユーモアいっぱいの話がポンポンと飛び出し、あふれるパワーでいっぱいのビュクナー氏。日本語の会話、読み書きが達者なことでも知られている。
 日本とのつながりは、モスクワで開催されたチャイコフスキー国際コンクールに出場した1986年にさかのぼる。ファイナルのステージでスタインウェーを差し置き、氏が選んだのはヤマハのピアノ。「当時北米ではまだあまりヤマハのグランドは出回っていなかったのです。弾いてみたらこれがとってもビューティフル!」
 ヤマハのピアノを選んで弾いた初めてのピアニストとして、ブロンズメダルを獲得。このことがきっかけで翌年、ヤマハ本社から日本縦断コンサートツアーに招かれた。初めての日本で、至れりつくせりの接待。「何を食べたいですか、と聞かれて“ふぐ”と応えてしまったんです。愚かでしたね。そんなに高いものとは知りませんでした。懐石料理でおもてなしを受けました」
 以来、日本での公演も多い。



甲子園の熱気に
感動!
1995年以来、熱烈な阪神タイガース・ファン。「初めて甲子園で阪神の試合を見たときはオー・マイ・ゴッド! 信じられませんでした。虎のズボン、はっぴ、メイクアップをしたファンたちの熱狂的な応援。会場に流れるノンストップの応援歌。あの熱気に感動しました」
生まれ育ったボルティモアでは野球が盛んで、家族全員野球好きだった。ところがこれほど熱狂したものは、北米では見られないと説明する。
「阪神ファンというのはチームと結婚しているようなものですね。愛というより生涯かけての献身。音楽に対する私の情熱に似ています」
2007年には球団事務所で宮崎オーナー(当時)との接見が実現。大勢の新聞記者からフラッシュを浴び、カナダから来日した熱烈な阪神ファンのピアニストとしてスポーツ紙を賑わせた。
 阪神の話になると目を輝かせ、即座にグランド・ピアノに腰掛け『六甲おろし』の出だしをぽろり。阪神ファンであるということは単に野球が好きというだけでなく、一種のアイデンティティーでもあり、そこには家族的な絆もあるのだと分析する。


ピアノの
レッスン
ピアノとの出会いも画期的だった。「3、4歳の頃だったと思います。兄がピアノを習っていたので、いつもピアノに触ってみたいと思っていた私は、母にねだりピアノのベンチに座らせてもらいました。先生が兄の本を広げると、見よう見まねで弾けてしまったのです。自然に備わった能力というものがあるのでしょうね。早いうちからピアニストになるんだ、と決めていました」
 高校生のときは1日4-5時間練習し、ニューヨークの名門ジュリアード音楽院に進んでからは、1日8時間から10時間ピアノを弾いた。
「厳しい訓練も大切だけど、興味や情熱がないとダメ。親がプッシュしてピアノを習わせても無駄でしょう。それよりもエンジョイすることがクリエイティブの世界に大切なのです。誰にでも何らかのタレント(才能)があるはず。それを見つけるのことが難しいだけ」と話す。
「小さな子どもは、じっとしていることが大変ですね。バイオリンと違ってピアノは動きが取れません。しかも大きくて黒くてお棺みたいでしょ(笑)」。レッスン後、気持ち良い笑顔で帰宅することが、レッスンの効果を測る目安ではないかと語る。



ステージでの
瞬間
ニューヨークに27年住み、コンサート・ピアニストとして確固たるステイタスを持っていたが、UBC音楽学部でのポジションをきっかけにカナダに移り住んだ。山と海が見える自宅の部屋で、時間が取れる日には4ー5時間練習する。
 週3日教鞭を取る傍ら、世界各地でコンサート活動やマスタークラス、講演を行い、ピアノ協奏曲のレパートリーは100曲以上に及ぶ。
「例えばモーツァルトを弾くとき、ものすごく美しい旋律のところで、まさしくこの音を出したいと思った音を出せて、指揮者と後ろにいるオーケストラと一体になっていっていると感じる瞬間。このとき“なぜ自分はピアノを弾いているのか”といったような、人生の意味がわかるような気がします」と目を輝かせる。
 パッションという言葉が実によく似合う。難しいとされる日本語も「ひらがな、かたかな、グラマーなど楽しく勉強しました。ニューヨークで、とても素晴らしい先生についたお陰です」
発音が難しい言葉でも“音を聞く耳”があるから、周りの生徒に比べ上達も早かった。このとき習った渡辺先生からは、辛抱強く教えるテクニックを学び、それがピアノを教える上で役立っているという。


被災者支援のために
「今、多くの日本人が心を痛め、暗く憂鬱な気分になっています。ニュースが気になってテレビに見入っていると、よけいにふさぎこんでしまうので、新鮮な空気を吸いに外に出ることが必要ですね。ナイン・イレブンのとき、ブロンクスのアパートの屋上から遠くのマンハッタンで火が上がっているのを見ました。友人は地下鉄の駅から出てくるとき、飛行機がビルめがけて飛び込む瞬間を見て、それ以来人生が変わってしまいました」と同時テロの恐ろしさを実感した。
今回の地震発生直後、バンクーバー交響楽団社長のジェフ・アレクサンダー氏とピアニストのアレクサンダー恵子さん夫妻に相談し、バンクーバーで何が出来るか、アーティストが集まって義援金集めのためのコンサートを開けないか、と一目散に提案したのがビュクナー氏だった。
一見、華やかな印象を受けるが、生まれ故郷ボルティモアから移り住んだニューヨークでの生活などを通して、人間の心の奥深くにある苦悩もよく知っている。そんなビュクナー氏は、これからも日本とカナダの架け橋として、美しい旋律と楽しい会話を提供してくれるに違いない。
(取材 ルイーズ阿久沢)




サラ・デイヴィス・ビュクナー (Dr. Sara Davis Buechner)
1959 年生まれ、米国メリーランド州ボルティモア出身。ジュリアード音楽院を経て大学院博士課程終了。エリザベート王妃国際コンクール、リーズ国際ピアノコンクールをはじめ、ザルツブルク、シドニー、ウィーンなど多くの国際ピアノコンクールで受賞ほか、1984年のジーナ・バックアウワー国際コンクールで優勝。1986年、チャイコフスキー国際ピアノコンクールで3位入賞。北米やアジアを中心にコンサート活動を行う傍ら、世界各地で講演やマスタークラスも行っている。100曲近いピアノ協奏曲のレパートリーを持ち、ジャンルもバッハから現代曲と幅広い。2003年よりUBC音楽学部准教授。愛用はヤマハピアノ。

トロント猛虎会阪神優勝祝賀会に宮崎相談役の参加か?!

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以下は宮崎相談役から丸木理事へのメール:

From: 宮崎 恒彰 [mailto:miyazaki.t@hcl-c.com]Sent: Monday, August 04, 2008 1:01 AMTo: Hideo Maruki

Subject: 5周年

ご盛会のご様子何よりです。岡田監督の祝電はともかく、小生はオーナーを辞めた身分で、付け足しで申し訳ありません。  

ジーン・ディノヴィさんは残念でしたね。次回は参加されるでしょうか。しかし、すぐ代わりの方が演奏されるなどは、流石トロント猛虎会ですね。お見えになったとき、DVDを拝見するのを楽しみにしております。  

トロントとご縁があるのでしょうか、まだ、はっきりしませんが、9月下旬頃、ニューヨークのニールセンへ、ライセンスをもらっているビルボード音楽事業の挨拶に行こうかと思っております。先方の社長のアポが取れないと、日程が分かりませんが、ニューヨークからトロントは飛行機でどれくらいの時間が掛かるのですが?もし、丸木さんたちのご予定が合い、紅葉でも見ることが出来たら最高なんですが。(少し時期が早いかな?)ロスの当社支店へ立ち寄ってから、ニューヨークへ行く予定ですが、相手側の都合次第です。

宮崎 恒彰

-----Original Message-----From: Hideo Maruki [mailto:maruki_hideo@rogers.com]Sent: Monday, August 04, 2008 12:09 AMTo: miyazaki.t@hcl-c.comCc: maxas@sympatico.ca; wada@sawayaka.com.br; nikka@idirect.com

Subject: 5周年

丸木で~す トロント猛虎会5周年パーティーから今帰ってきました。宮崎相談役と岡田監督からの祝電に、参加者一同感激しました。主用選手の色紙他たくさんのタイガース・グッズ本当に有難う御座いました。他にも各位から寄贈の阪神グッズもあり空籤なしのドアプライズに沸きました。頂戴した大きな2008年旗幕をバックに記念写真も撮りましたのでDVDを持参します。四方山話の話題が又ひとつ増えました。ひとつだけ残念だったのは、いつも「六甲おろし」の伴奏をしてくださるジーン・ディノヴィさんが負傷され参加できなかったことです。代役にヤマハピアノ調律師の方が伴奏してくださり、甲子園に届けと皆で「六甲おろし」を斉唱し「リーグ優勝祝賀会で会いましょう」と言い合って散会しました。

甲子園観戦記

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 トロント猛虎会のマックス松本会長の名代として、阪神タイガースの宮崎オーナー、岡田監督と、日本に帰国されてる肥塚大使に、松本会長からの親書を携え訪日してきました。肥塚さんは云わずと知れた我がトロント猛虎会発起人で、トロント総領事をされていた方です。
 8月12日関空着、月末の阪神巨人三連戦まで間があったので、宮崎さんから大阪の阪神電鉄本社で四方山話をしようと提案あり、お盆明けに出勤された同氏とホテル阪神のレストラン特別室で阪神ランチ(テキにカツ)を食べながら2時間ほど話し合いました。
 トロント新移住者協会ニュースレターに「バーチャル交遊抄」と題し寄稿したメル友がリアル交友となりました。2年間のメールのやりとりで、おおよその見当はついてましたが、阪神タイガースのオーナーは実に気さくな方で直ぐに打ち解け、出身地も近いことから共通に知人もあって、文字通りの四方山話になりました。
 折から北京オリンピックの最中で、野球は苦戦するのではないかと申されたのには度肝を抜かれましたが、そのとおりになり慧眼には敬服しました。長期のリーグ戦はともかく、一発勝負では難しいなとも申され、先見の明には感心しました。従って、リーグ優勝してもクライマックスシリーズで勝てるとは限らないと、憂慮しておられました。
 オーナー会議の後で他球団のオーナーと飲みに行った時に、メジャーのオーナーがカリブ海の大型ヨット(ダイニングルームや医務室まである)から球場でプレーしてる監督に電話で指示してるのをテレビで観て「同じオーナーでもえらい違いや、向うはほんまもんのオーナーやけど、日本では皆サラリーマン・オーナーやからなぁ」と、お互い慰め合ったとか・・・。
 
 いよいよ待ちに待った伝統の阪神巨人戦当日の午後、肥塚さんが東京発の新幹線の中から僕の関空でレンタルした携帯に電話してこられ、大雨で河川の洪水があるらしく不通になってる区間があり集合時間に遅れると連絡あり、宮崎オーナーに指示を仰ぎました。間に合わない場合は6号門に直接来られれば来賓席まで案内するようにしておくと、新幹線の中に居られる肥塚大使に直接電話されました。
 肥塚さんは集合場所の阪神タイガース球団事務所のあるクラブハウスに5時丁度に来られ事無きを得ました。6号門から入場した僕達は、球場内の応接室でトロント猛虎会5周年記念パーティーのDVDを観賞し、発起人の肥塚さんは殊のほか感動され目が潤んでました。自称世界一のトラキチ・BC大学ピアノ科教授のサラ・ビュークナー女史は、トロントの活動に刺激されバンクーバー猛虎会も活発にやらなければとハッスル。
 阪神巨人両チームの試合前の練習が終わり、プレーボール直前に岡田監督のオフィスで宮崎さんに紹介された後、マックスから岡田監督宛のパッケージを手渡し、僕の着てたトロント猛虎会Tシャツの背中に岡田監督が大きなサインをしてくれました。マックス宛の色紙を書かれたのと同じ文字で、サラが欲しがりましたが、トロントのユニフォームだからと断りました。彼女は岡田監督をハグしてキッスすると云ってましたが、宮崎オーナーによれば、同監督が神経のピリピリ緊張してる試合直前に訪問者との面談に応じたのは前例がないそうで、トロント猛虎会5周年にも祝電を打ってくれたように、トロント猛虎会だけは特別扱いとか・・・。
 岡田監督との面談が終わり、記者会見に臨み宮崎オーナーから僕達の訪日目的と紹介がありました。発起人で終身名誉会長の肥塚大使、幹事の僕、去年の暮にも甲子園で記者会見したトラキチのビュークナー教授。大勢の記者から連発の質問攻めにカメラマンの焚くフラッシュが眩しく、不慣れの僕はまごつきましたが、大使も教授も場慣れしてるのか当り障りなく応答されました。

 プレーボールの声を聴きながら来賓席に着席。サラは早速、タンクを担いだアルバイト女子大生から生ビールを買い求めグイ~と飲み干し、タイガースグッズを取り出し気勢をあげ猛烈な応援。雨がひどくなってきたので、来賓用プレミアム・ダイニングルームに移動し山海の珍味に舌鼓。刺身や神戸ビーフも美味でしたが、甲子園名物のライスカレーとビール会社直通の生ビールのうまいことうまいこと。雨が小止みになり席に戻り観戦、関本のタイムリーヒットで先ずは三連戦の緒戦に勝利。六甲おろしの歌詞がスコアボードに電光文字で現れ、勝利の美酒に酔いながら歌うタイガース応援歌。僕達一行は感動に包まれ球場を後にしました。

 球場の傍にある竹本アンパイヤーの経営する居酒屋での反省会は英語での会話。神戸大学出身の宮崎さんも流暢な英語で話が弾みました。そう云えば昔から一橋大学と神戸大学を出た人は何故か英語が上手でした。反省会の後、僕はタイガース私設応援団常任理事の高橋二郎さんの招きで今津にある飲み屋「虎」に行きました。今津中学の後輩のたむろする今津に来たのは55年ぶりで感無量。阪神ファンの集う店に貼ってあるメニューの「兄貴・金本」は焼肉、「巨人の叩き」は鰹のたたき等々、おもろい名前の料理の列。割り箸の紙サックには大きな文字で巨人ファンお断わりと印刷されており、翌朝、ブレックファーストを共にした肥塚さんも、おもろいからと一膳持って帰られました。

 阪神タイガースの宮崎オーナーはじめ総務部長の福島さんと広報部長の酒井さんが、つきっきりでのおもてなしには頭が下がりました。今まで会ったことも話したこともなかったインターネットによるバーチャル交遊抄が一夜にしてリアルの交友に転じた経緯を書いてみました。宮崎オーナーと三宅スカウトが10月7日にトロントに来られ、トロント猛虎会の阪神優勝祝賀会に臨席されます。
トロントに住む僕達トラキチの夢が実現するのもジャスト・アラウンド・ザ・コーナー。
六甲おろしに颯爽と♪

阪神タイガース歓迎会

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 2008年10月8日、待ちに待った日が実現しました。阪神タイガースの宮崎オーナーと三宅スカウトがトロントに来られ、トロント猛虎会に出席してくれたのです。思いもかけぬ来賓の臨席に会員一同大歓迎したのは言うまでもありません。
 僕達はリーグ優勝祝賀会を計画していたのですが、連敗に告ぐ連敗で巨人に追い上げられ、遺憾ながら当日の優勝見込みがなくなり、会場のバナーを阪神タイガース歓迎会と書き換えました。その上、皮肉にもお二人が日本に帰られた翌日に巨人優勝が決まり阪神ファンには悪夢のようなシーズンでした。それでも球団首脳がトロントまで来てくれたのだから、猛虎会にとっては画期的な行事でありました。なにしろ、猛虎会は日本も含め世界に多数ありますが、オーナーじきじきに参加されたのはトロントが初めてだそうです。
 球団の親会社である阪神コンテンツリンク会長の宮崎さんは、同社ロサンゼルス事務所での仕事を終え、ニューヨークにある提携先のビルボード本社を訪問されました。阪神は東京、大阪、福岡にビルボードのライブハウスを開店されており、ジャスファンには馴染のスポットになってるそうです。
ちなみに、ビルボードの前には有名なブルーノートのフランチャイズを東京と大阪に営業されていたそうです。
 ピアソン空港に出迎え到着ロビーで待っていると、成田空港でレンタルされた携帯から僕の携帯に飛行機を降りて入国手続の列に並んでますと電話があり通関まで半時間ぐらいとわかりほっとしました。宮崎さんは40年前の阪神電鉄入社当時、日本でボーリングブームが起こり、電鉄会社の関連事業開発にバッファローに来たことがあるとか。その際にナイヤガラの滝を見た記憶があるが、あらためて観たいとのことで、ホテルのチェックインには早過ぎるので空港からナイヤガラに直行しました。
 三宅スカウトはマサチューセッツ州のクラークカレッジ出身で英語とスペイン語を話されとか、さてはキューバ、プエルトリコ、ドミニカ、メキシコ、ベネズエラの金の卵のスカウト要員と読めた。
営業時間を少し過ぎていましたが、店を開けて待ってくれていたレストラン「滝」支配人のトモさんは熱狂的な阪神ファンで、話が尽きないばかりか料金までチャラにしてくれました。宮崎オーナーは、お礼に支配人の3人のお子さんに子供用の阪神グッズを贈呈され、トモさんは大喜び。宮崎さんはうどんランチ、三宅さんと僕は滝ランチ、それにしても、あそこのランチは安くておいしいですね。
 夕方にロジャースセンター野球場内のルネッサンスホテルにチェックインされた後、トロント猛虎会マックス会長宅でリラックスしビールで乾杯。ブルージェイズの長谷川さんも合流し、ヨークビルにあるイタリア料理のBelluni'sで前夜祭的の歓談。マックスから猛虎会発足当時のエピソードを披露、発起人で当時のトロント総領事・肥塚大使と宮崎オーナーは一ヶ月前に甲子園球場で会って面識あり同じ話を両国で二度聞かされ、根強い阪神ファンが世界の隅々まで存在することに感動されました。
 帰国中の大使を野球観戦に誘うのは無理だろうとマックスが申しましたが、折角の機会だから駄目元で僕が肥塚さんにメールしました。頭初は「公務員にウイークデーの観戦は難しいな」と云われたものの、「休暇が取れたから行くよ」と、大使が中学高校の頃に住んでおられた甲子園まで来られました。大使は、外務省入省以来は外国勤務ばかりで甲子園での野球観戦は1972年以来。
 旅程も最終行程に入りリラックスされたのか、宮崎さんが「高校時代にトロントのペンパルから受け取った手紙に、チューインガムが同封されていました」と話されました。三宅さんが「そのガールフレンドの名前を覚えておれば・・・」とひやかし和気藹々。その回顧談に僕の想い出が甦り、高三の時に岡惚れしていた学校随一の美人同級生の話をしました。
日本に帰られた宮崎さんから「その方は映画(濡れた唇)や(愛欲の罠)等の主演女優で日本一のポルノ女王、コテコテの阪神ファン」とのメールが翌週届き、僕は絶句!

2010年第一回トロント猛虎会開催のお知らせ

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オープン戦も終盤を迎え、26日からの開幕戦(対横浜三連戦)に
我々トロント猛虎会の阪神フアン仲間達にも緊張感が迸って来るの
を止める事が出来なくなって来ました。先発投手は?、打順は?、四番には誰が?・・・ 従っ
て、ネット上の「球団公式メルマガ<http://hanshintigers.jp/news/
offnews/>」を始め各新聞社のスポーツ欄やフアンによるブログ等阪
神タイガースに関する記事を追う時間が増えて来ました。

今年のオープン戦、現在のところ金本選手が13打席ノーヒットな
のでちょっと心配だけど、新井選手の調子が出て来たので安心。開
幕戦は安藤投手に期待するとして、打順はマートン選手を一番に据
え、関本選手、鳥谷選手、金本選手、城島選手、新井選手・・・
否、新井選手か城島選手を4番に据えるのも悪くないし、平野選手
や葛城選手、桧山選手,ブラゼル選手と優秀な選手がしのぎを削っ
てポジションを争ってくれればと、リーグ覇者への期待感が膨らん
で来ます。今年もトロント猛虎会の仲間達と一喜一憂を分かち合い
ながら阪神タイガースのリーグ優勝へ向って熱烈応援しようではあ
りませんか。

4月24日(土曜日)に本年度第一回トロント猛虎会を開催します
ので仲間達を誘ってご参加下さい。会場は例年通りジェイムス松本
邸、5時半~6時 p.m. に参集願います。出席される人数又
は出席の可否についてはマックス松本までご連絡下さい。

Makoto (Max) Matsumoto 

トロントの野球チーム「Tigers」

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トロントに "TIGERS" "GIANTS" "WHALES" といった野球チー
ムがあるのをご存知でしょうか。古くから2~3世による軟式野球リー
グ Japanese Canadian Baseball League (JCBL) があり、過去に
“DRAGONS" "KINTETSU" と云う名のチームもあったそうで
す。そして昨年、新チーム TIGERS が誕生したと聞いたので
チームの代表である小島さんと孫さんから話しを聞きました(この
ご両人、日本のプロ野球では阪神タイガースのフアンだった由)。
リーグは5月から9月まで毎日曜日、6球団総当たり(15
Games) の後プレーオフ (Double Elimination) 方式。チーム
のメンバーは日系、韓国系移民、駐在員、学生、ワーホリなどで構
成され、昨年の成績順位は GIANTS - WARRIORS-ASAHI-TIGERS-WHALES-
TANINO だった様子です。GIANTS が一位で TIGERS が
四位とは昨年セ・リーグでの順位と同じなのは不思議な縁。今年は是
非、JCBL の TIGERS にも優勝して貰いたいと思います。

Makoto (Max) Matsumoto

日刊工業新聞記事「いざ出陣! 阪神タイガース」

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3月26日付け日刊工業新聞 P-26「いざ出陣! 阪神タイガース」の記事に、関西学院経済学部の高林喜久男教授のコラム「戦績が経済と連動」が掲載されました。冒頭に「私は毎年、阪神優勝を予想している・・・」と、私達阪神フアンの気持ちを代弁してくれているかのようです。

記事の写真をここに添付します。写真右下の+マークをクリックすると拡大記事がご覧いただけます。

サンパウロ新聞にトロント猛虎会丸木氏

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サンパウロ新聞にトロント猛虎会の丸木英朗氏のインタビュー記事が掲載されました。

Web版は以下の通り。

「トロント猛虎会」の丸木さん サンパウロ新聞WEB版より
タイガース優勝を祈願「トロント猛虎会」の丸木さん 
サンパウロ新聞WEB版より http://www.spshimbun.com.br/imagens/maruki.jpg 

カナダ・トロントにある阪神ターガース・ファンクラブ「トロント猛虎会」理事の丸木英朗さん(75、兵庫県出身)が、1月下旬から来伯し、約2週間にわたって滞在した。 丸木さんによると同猛虎会は、2003年に阪神タイガースがリーグ優勝をおさめた際、当時の在カナダ日本国総領事が発起人となって結成。現在、2歳から90歳まで100人以上のメンバーがいるという。丸木さんは、1966年12月に移民として渡伯し、約6年間サンパウロで活動後、72年にカナダに再移住した経験を持つ。 ペルナンブコ州レシフェ出身の非日系の夫人と結婚し、以前はカナダから毎年のようにブラジルを訪問していたが、ここ5年ほどは夫人が大病を患ったため、来られなかったという。 丸木さんは今回サンパウロで、ブラジル猛虎会の尾西貞夫会長らと懇談し、6日には昨年10周年を迎えた「なつメロ合唱の集い」(五十嵐司世話人)に出席し、交流を深めた。 丸木さんはトロントで、同猛虎会以外に今年で創立10周年を迎える「トロント歌声喫茶」の会にも関わっており、この度の訪伯で、なつメロ合唱のメンバーと一緒に歌うことを楽しみにしていたという。 丸木さんは、今年の干支(えと)が「寅」であることから、「今年のタイガースは絶対優勝やね」と豪快に笑いながら語ってくれた。写真:来伯していた丸木さん

2010年 2月25日付


写真3枚目は丸木氏撮影による、春節祭でブラジル猛虎会会長の店の前の広場に鎮座していた巨大な虎。

随筆 「輝く我がなぞ 阪神タイガース 」

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2010年4月号トロント商工会誌「Trillium リレー随筆」より転載します。トロント日本商工会の会員でトヨタクレジットカナダの森川由章による阪神タイガースへの熱い思いが記されています。(リンクはこちら→ http://www.torontoshokokai.org/trillium/201004/zuihitsu_0410.html



リレー随筆

「輝く我が名ぞ 阪神タイガース」

トヨタクレジットカナダ 森川 由章



阪神タイガース。

言わずと知れた、日本一有名で、日本一の集客力を誇り、日本一熱狂的なファンを抱え、日本一の球場を本拠地とし、にもかかわらず過去に一度しか日本一になっていない(2リーグ制導入後)、愛すべきプロ野球球団である。関西出身者の6割が阪神ファンとも言われるほど、その弱さに反し関西地方では絶対的な人気を誇るこの阪神タイガースという不思議なチームについて、紹介させていただきたいと思う。

歴史

その歴史は古く、1935年に設立され、翌年の日本プロ野球リーグ開始以降、現在に至るまで全てのシーズンに参加している。“タイガース”の名は、設立時に阪神電鉄社員の公募によって決定されたものである。設立から1960年までは大阪タイガースという球団名であった。

創設から戦後にかけては4度の日本一に輝くなど、人気・実力を伴う強豪チームであったが、1950年の2リーグ分裂後は巨人の後塵を拝し続ける。低迷を抜け出したのは1962年。この年、藤本監督の下、2リーグ分裂後初のリーグ優勝を飾り、翌々1964年にも優勝。日本一は逃したものの、常勝タイガース復活を印象づける。

しかしそれ以降20年に渡り優勝を逃し続け(20年のうち3位以内には12回入っているので、そこまで弱かったわけではない。巨人9連覇の時代である)、次のリーグ優勝は1985年。この年は吉田監督の下、ダイナマイト打線を擁しリーグ優勝を果たすと、日本シリーズでも西武を破って悲願の日本一を達成する。この年のハイライト、伝説のバックスクリーン三連発は誰もがご存知であろう。

その後、阪神タイガースは低迷期、いや、暗黒時代に突入する。1987年から2001年までの15年間で優勝はおろか3位以内はわずかに1度、最下位になること実に10度と、驚異的なペースで負け続ける。この時代を経験したが故に阪神は弱小球団として世間から強く認知されたのであろう。

近年は、2003年に星野監督・2005年に岡田監督の下で優勝を果たし、それ以外の年でも優勝争いを繰り広げるなど、暗黒時代からは脱却した。

甲子園

阪神タイガースの本拠地は、兵庫県西宮市甲子園町にある阪神甲子園球場である。収容人数は日本の野球場で最大であり、外壁の蔦や銀傘、美しい天然芝、気まぐれな浜風が特徴の、日本一と言っても過言ではない野球場である。高校野球の聖地でもあり、全国の高校球児の目標である夏の選手権大会および春の選抜大会が開催される期間中は、プロ野球の試合は行われない。試合に負けた高校球児が甲子園の土を持ち帰るシーンは春と夏の風物詩と言えよう。また、甲子園ボウル(アメフト大学王者決定戦)の開催地でもある。

甲子園における阪神ファンの応援は世界一とも言われるが、その一体感や大音量は鳥肌が立つほどであり、地鳴りのような歓声は甲子園を揺らし、対戦相手に極度のプレッシャーを与える(但し、時として阪神側へのプレッシャーとなることも)。

ファン

「トラキチ(1985年の流行語大賞銀賞)」という言葉が存在するように、阪神タイガースは、他球団と比べて熱狂的なファンを抱えることでもよく知られている。

既述したように、その応援は世界一と称され、その動員力は12球団ナンバーワンである。甲子園では見渡す限り阪神ファンという光景は当たり前であるし、アウェイでの試合でも阪神ファンが数で圧倒することが多々ある。近年では関西地方のみならず全国的に熱狂的なファンが拡大しており、地域・世代を問わず阪神タイガースに対して強い一体感・愛情を持っている。応援が生活の一部となっているファンも少なくない。

しかしタイガースへの強すぎる愛情が仇となり、過去に問題行動(優勝時の道頓堀への飛び込み、敗戦時の相手球団ファンへの暴行、相手球団選手への誹謗中傷、カーネルサンダースの呪い、等)を度々起こしており、良識あるファンや選手から非難の声があがることもある。

応援スタイルは非常にバリエーション豊かであり、レギュラー選手全員のヒッティングマーチはもちろん、得点シーンやチャンスでの応援、ラッキーセブンのジェット風船や勝利の六甲おろし等、さまざまな趣向が凝らされている。服装も、ユニホームや法被をはじめ、バラエティーに富んだ色とりどりのものが見られる。

阪神ファンにとって『六甲おろし』は、カナダ人にとっての『オーカナダ』に匹敵するほど大切な歌と言っても過言ではない。他の球団歌とは一線を画す、ファンの心を一つにしてくれる伝統の歌である。ちなみに、『六甲おろし』とは単なる通称であり、正式名称は『阪神タイガースの歌』という。

私と阪神タイガース

私が阪神ファンとなったのは必然であった。阪神ファン(イコール、アンチ巨人)であった父は、野球少年の息子がプロ野球中継を見たいと言っているのに、阪神が巨人に負けているときは決して見せてはくれなかったし、私が父に連れられて初めて生でプロ野球を見たのは、真弓の決勝ホームランでタイガースが勝った試合であった。甲子園のある兵庫県で生まれ育った私にとって、阪神タイガースは身近にして最大のヒーローであった。

だが、悲しいかな1980年生まれの私は1985年の日本一をはっきりと覚えていない。私の脳裏に焼きついているのは、上述した暗黒時代の阪神タイガースである。毎年のように最下位争いをし、見るに耐えない惨敗を繰り返し、試合の結果よりも新庄のファッションが話題になる、あの阪神である。それでも何故か私は阪神ファンであることを常に誇りに思い、他チームのファンになりたいと思ったことは一度たりともなかった。

プロ野球である以上、勝つために試合をし、ファンも勝利を望む。そしてことごとく裏切られるにも拘らずファンは去っていかない。弱いが故に1勝の喜びが他球団の何倍にも感じられるのか、阪神に傾注した関西のスポーツ新聞による洗脳なのか、理由は定かでないが、私は他の阪神ファン同様、暗黒時代もタイガースを応援し続けた。

近年の躍進はもちろん喜ばしいことで、18年ぶりの優勝を果たした2003年、黄金時代到来の予感を感じさせてくれた2005年、私は歓喜の涙を堪えることができなかった。また、優勝争いの緊張感を毎年味わえるのはファン冥利に尽きる。しかし私は、再び暗黒時代に戻ってしまうことを恐れながらも心のどこかで、負け犬根性が染み付いた昔のタイガースを懐かしんでいるのである。

余談になるが、私がトロントに赴任して感じたのは、トロントメープルリーフスと阪神タイガースが非常に似通っているということである。弱いが伝統のある名門チームだが昔は強豪であった点、リーグの中で最も熱狂的なファンを有する点、そして負けても負けてもファンが応援してくれるという点において、メープルリーフスはNHLの阪神タイガースと言えるのではないだろうか。

阪神のススメ

ここまで読んでいただいた方は、阪神がどのようなチームかおおむねご理解いただけたかと思う。しかし阪神タイガースの本当の魅力は、やはり現地で応援してこそ理解できるものである。甲子園は別格であるが、他の球場であっても阪神ファンの応援は対戦相手を圧倒する。あの一体感・高揚感のあるお祭り騒ぎを体感し、声を枯らして帰途に着く頃にはあなたも一端の阪神ファンとなっているに違いない。

一度はまるとなかなか抜け出すことのできない、麻薬のような危険を伴う阪神タイガースという世界に足を踏み入れてみてはいかがであろうか。きっとあなたの人生に新たな刺激を与えてくれるはずである。




 

デイリースポーツにトロント猛虎会の丸木氏

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4月27日のデイリースポーツ7面で、我がトロント猛虎会の丸木英朗氏が紹介されました。
(オリジナル画像は右下の+印をクリックしてください。)

大の阪神タイガースファン、サラ・ビュックナーさん

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写真1:ピアニスト、サラ・ビュックナー氏
写真2:大の阪神タイガース・ファン
写真3:JRパスや入場券など日本旅行の思い出を張ったパネル(左はピアニストの勢川加代子さん)

以下4月7日のバンクーバー新報より:


日本語堪能なピアニスト・UBC准教授 阪神タイガースの名誉ファン サラ・デイヴィス・ビュクナー氏
Friday, 15 April 2011 10:17
会った瞬間から、相手を引き寄せるようなオーラがあふれ出すピアニストのサラ・デイヴィス・ビュクナー氏。流暢な日本語にジェスチャー交じりの愉快な会話。阪神タイガースの話を始めたら止まらない。 
4月10日に行われるチャリティー・コンサート開催に向けて貢献したビュクナー氏に話を聞いた。



初めての日本でふぐ料理
大阪芸人を思わせるようなユーモアいっぱいの話がポンポンと飛び出し、あふれるパワーでいっぱいのビュクナー氏。日本語の会話、読み書きが達者なことでも知られている。
 日本とのつながりは、モスクワで開催されたチャイコフスキー国際コンクールに出場した1986年にさかのぼる。ファイナルのステージでスタインウェーを差し置き、氏が選んだのはヤマハのピアノ。「当時北米ではまだあまりヤマハのグランドは出回っていなかったのです。弾いてみたらこれがとってもビューティフル!」
 ヤマハのピアノを選んで弾いた初めてのピアニストとして、ブロンズメダルを獲得。このことがきっかけで翌年、ヤマハ本社から日本縦断コンサートツアーに招かれた。初めての日本で、至れりつくせりの接待。「何を食べたいですか、と聞かれて“ふぐ”と応えてしまったんです。愚かでしたね。そんなに高いものとは知りませんでした。懐石料理でおもてなしを受けました」
 以来、日本での公演も多い。



甲子園の熱気に
感動!
1995年以来、熱烈な阪神タイガース・ファン。「初めて甲子園で阪神の試合を見たときはオー・マイ・ゴッド! 信じられませんでした。虎のズボン、はっぴ、メイクアップをしたファンたちの熱狂的な応援。会場に流れるノンストップの応援歌。あの熱気に感動しました」
生まれ育ったボルティモアでは野球が盛んで、家族全員野球好きだった。ところがこれほど熱狂したものは、北米では見られないと説明する。
「阪神ファンというのはチームと結婚しているようなものですね。愛というより生涯かけての献身。音楽に対する私の情熱に似ています」
2007年には球団事務所で宮崎オーナー(当時)との接見が実現。大勢の新聞記者からフラッシュを浴び、カナダから来日した熱烈な阪神ファンのピアニストとしてスポーツ紙を賑わせた。
 阪神の話になると目を輝かせ、即座にグランド・ピアノに腰掛け『六甲おろし』の出だしをぽろり。阪神ファンであるということは単に野球が好きというだけでなく、一種のアイデンティティーでもあり、そこには家族的な絆もあるのだと分析する。


ピアノの
レッスン
ピアノとの出会いも画期的だった。「3、4歳の頃だったと思います。兄がピアノを習っていたので、いつもピアノに触ってみたいと思っていた私は、母にねだりピアノのベンチに座らせてもらいました。先生が兄の本を広げると、見よう見まねで弾けてしまったのです。自然に備わった能力というものがあるのでしょうね。早いうちからピアニストになるんだ、と決めていました」
 高校生のときは1日4-5時間練習し、ニューヨークの名門ジュリアード音楽院に進んでからは、1日8時間から10時間ピアノを弾いた。
「厳しい訓練も大切だけど、興味や情熱がないとダメ。親がプッシュしてピアノを習わせても無駄でしょう。それよりもエンジョイすることがクリエイティブの世界に大切なのです。誰にでも何らかのタレント(才能)があるはず。それを見つけるのことが難しいだけ」と話す。
「小さな子どもは、じっとしていることが大変ですね。バイオリンと違ってピアノは動きが取れません。しかも大きくて黒くてお棺みたいでしょ(笑)」。レッスン後、気持ち良い笑顔で帰宅することが、レッスンの効果を測る目安ではないかと語る。



ステージでの
瞬間
ニューヨークに27年住み、コンサート・ピアニストとして確固たるステイタスを持っていたが、UBC音楽学部でのポジションをきっかけにカナダに移り住んだ。山と海が見える自宅の部屋で、時間が取れる日には4ー5時間練習する。
 週3日教鞭を取る傍ら、世界各地でコンサート活動やマスタークラス、講演を行い、ピアノ協奏曲のレパートリーは100曲以上に及ぶ。
「例えばモーツァルトを弾くとき、ものすごく美しい旋律のところで、まさしくこの音を出したいと思った音を出せて、指揮者と後ろにいるオーケストラと一体になっていっていると感じる瞬間。このとき“なぜ自分はピアノを弾いているのか”といったような、人生の意味がわかるような気がします」と目を輝かせる。
 パッションという言葉が実によく似合う。難しいとされる日本語も「ひらがな、かたかな、グラマーなど楽しく勉強しました。ニューヨークで、とても素晴らしい先生についたお陰です」
発音が難しい言葉でも“音を聞く耳”があるから、周りの生徒に比べ上達も早かった。このとき習った渡辺先生からは、辛抱強く教えるテクニックを学び、それがピアノを教える上で役立っているという。


被災者支援のために
「今、多くの日本人が心を痛め、暗く憂鬱な気分になっています。ニュースが気になってテレビに見入っていると、よけいにふさぎこんでしまうので、新鮮な空気を吸いに外に出ることが必要ですね。ナイン・イレブンのとき、ブロンクスのアパートの屋上から遠くのマンハッタンで火が上がっているのを見ました。友人は地下鉄の駅から出てくるとき、飛行機がビルめがけて飛び込む瞬間を見て、それ以来人生が変わってしまいました」と同時テロの恐ろしさを実感した。
今回の地震発生直後、バンクーバー交響楽団社長のジェフ・アレクサンダー氏とピアニストのアレクサンダー恵子さん夫妻に相談し、バンクーバーで何が出来るか、アーティストが集まって義援金集めのためのコンサートを開けないか、と一目散に提案したのがビュクナー氏だった。
一見、華やかな印象を受けるが、生まれ故郷ボルティモアから移り住んだニューヨークでの生活などを通して、人間の心の奥深くにある苦悩もよく知っている。そんなビュクナー氏は、これからも日本とカナダの架け橋として、美しい旋律と楽しい会話を提供してくれるに違いない。
(取材 ルイーズ阿久沢)




サラ・デイヴィス・ビュクナー (Dr. Sara Davis Buechner)
1959 年生まれ、米国メリーランド州ボルティモア出身。ジュリアード音楽院を経て大学院博士課程終了。エリザベート王妃国際コンクール、リーズ国際ピアノコンクールをはじめ、ザルツブルク、シドニー、ウィーンなど多くの国際ピアノコンクールで受賞ほか、1984年のジーナ・バックアウワー国際コンクールで優勝。1986年、チャイコフスキー国際ピアノコンクールで3位入賞。北米やアジアを中心にコンサート活動を行う傍ら、世界各地で講演やマスタークラスも行っている。100曲近いピアノ協奏曲のレパートリーを持ち、ジャンルもバッハから現代曲と幅広い。2003年よりUBC音楽学部准教授。愛用はヤマハピアノ。
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